「再出発」
ゼロ、1、無限大を知りましょう
『ゼロからスタートして、知識がつくと一になる。これを完成させるために、無限大に増やしていくんだ。』そして、『無限大になるためには、一になった自分をいったん捨てて、ゼロに戻りなさい。』
(これは藤本賢二氏の高校時代の恩師の言葉です。1999年6月8日の産経新聞夕刊「人生讃歌」藤本氏の記事で掲載されたものです。)
Jさんは私の仕事上の知り合いです。
会社員から独立し、20年、たった独りで事務所を切り盛りしてきた人です。
組織から離れて独りでバリバリ働くこと自体、ごく少数だった時代からがんばってきました。
Jさんは3人兄弟の末っ子。
兄と姉は結婚して家庭を持ち、Jさんは独身です。
あるときからJさんの年老いた両親がほぼ同じ時期に、介護が必要となりました。
当然の流れで、長男であり、家を継ぎ両親と同居している兄夫婦が自然と両親の世話をしていました。
また、外に嫁いだ姉とJさんは、ときどき手伝いをするような状況が続きました。
ところが、兄はワンマンな人です。
姉とJさんは、両親のことが気にかかりますが、兄に忠告などしようものなら猛反撃を食らってしまいます。
Jさんの母親は、「兄弟は皆同じように育てた」と言うそうですが、子供の頃から、長男である兄を甘やかしてしまったところがあるようです。
足の病気で杖を使って生活をしていた母親に対して、Jさんとお姉さんは小学生の時から、母親の肩をもんであげたり、すすんで家事を手伝ったりしました。
一方、兄は、母親の手伝いはしないどころか、肩をもんであげたことすらありません。
すこし人を思いやる心に欠け、相手の気持ちになって考えようとすることが、できないようです。
兄が大人になって結婚した女性が、兄と似たところがある人です。
この兄夫婦が両親の看護をするため、Jさんと姉は気が気ではありません。
自分たちの娘の部屋にはクーラーを付けて、両親の部屋には付けないことに始まり、賞味期限が切れた食べ物を食べさせないように注意するなど、兄夫婦の機嫌を損ねないように説得しなければならなかったのです。
そんな兄夫婦を怒らせたりしては、両親の世話を手抜きしたり、世話をしなくなることも十分ありえます。
Jさんは当時のことを、「両親を人質に取られているみたいだった」と言います。
ですから何でも我慢して、いいたいことも言わないで協力してきたそうです。
Jさんは、この問題を解決するため、自分が母親を引き取ろうと思い始めました。
そのためには、自分の事務所をたたまなければなりません。
決して羽振りが悪いわけではないし、仕事は自分の唯一の心のよりどころでもあり、財産です。
簡単に捨てることは考えられません。
しかし、自分の20年の努力と成果を手放すのが惜しい反面、このままでは、両親のことが気にかかります。
以前のように仕事にも集中できず、Jさんは2つの考えの間で揺れ動きます。
今の自分があるのも、自分を生んでくれた両親があってこそ。
自分はもう十分に成功したのだから、これ以上、自分のために生きるのは欲張り過ぎではないか。
これを機に両親のために生きるのもいいのではないか。
揺れる思いは、やがて母と暮らす方向にだんだんとシフトしていきました。
とは言うものの、母親には長生きして欲しいけれど、事務所をたたんだ自分が、これまでの蓄えで母と2人、いつまで暮らすことができるのか、という未来への心配がよぎります。
これまでのように旅行もできない、友人たちとも疎遠になる、自分の結婚も二の次です。
そして、気づいたら1ヵ月も、そのことで悩み、悶々と過ごしていました。
地に足のつかないような感覚で、生きている心地がせず、寝ているときでさえ寝ている感じがしなかったと言います。
その間は、仕事にも身が入らず、事務所をたたむ覚悟を決めかけてもいたので、新規の契約をとる気も起きませんでした。
それから、兄弟の集りで、Jさんは事務所をたたむと宣言しました。
20年のキャリアを捨てて"無"になるということです。
すると、皆が、「おまえがそこまですることないよ!」と言います。
Jさんは、拍子抜けしました。
どうやら、Jさんが考えていた深刻さと、兄姉夫婦が考えていた深刻さに、ギャップがあったようで、そこまでJさんを追いつめたことを、皆が初めて気づきました。
結局、皆の猛反対で事務所を存続することにしたJさん。
存続するとはいっても、一度、自分の気持ちの中ではたたんでしまった事務所です。
同じ名前を掲げてはいますが、Jさんは、まったく新しい事務所を始める気持ちで再スタートするしかありませんでした。
初心に返り、いったんゼロにすることでこそ、得た再出発の力。
Jさんの事務所は、重大な岐路にあったことを思わせないほど、今も活気づいています。
その水面下では、Jさんの勇気があったからこそ家族の絆が一段と深まり、協力し合うための話し合いも、前向きに持たれるようになったのです。
そして現在では、具体的な当番制を決めたり、助け合いの精神を皆が実践して、両親をきちんとお世話してあげているということです。
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